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□ 子どもの情景シリーズ □

トロイメライ -夢ー 

 遠く、どこか物凄く遠くで、とても綺麗な音が聞こえる。
 『それ』は、俺の耳にはまだ『音』でしか過ぎなくて、それ以上でもそれ以下でもなかった。

( ……何の音だろう? 綺麗だな )

 そんな声にならない呟きが、俺の真っ白な頭の中にふっと浮かんでふわっと消えた。

( あれっ? )

 時々……、そう自分でも分からないくらい時々、俺は何かを感じることがある。時々というのは俺がそう思う時、その前の事を思いだせないから、きっと物凄く時々なんだと勝手に考えているだけなんだけど。

 感じるのは、俺に触れる温かい手。
 伝わってくる温かさはいつも同じなのか、違うのか、俺には分からない。
 ただひどく、その温かさに触れて俺は安心して、また眠る……

( ん? 眠るって、俺、どうして…… )

 小さく湧いた、そんな疑問。
 その疑問も飲み込んで、俺の意識はずっとずっと深い海の底のようなところに沈んでゆく。俺の中にある、『何か』をその圧力でぎゅっと押し込めるように。

 小さく触れて、俺の手を取る。
 柔らかく触れて、俺を包み込む。
 熱く触れて、俺を……

 それは、自分の中からプクンと浮いて、空気の泡のようなきらきらしたもの。
 光の無い底に沈んでゆく俺は、それに手を伸ばし、指先が周りに同化するのをただじっと見ていた。


   ■ ■ ■



 病院の総合受付のカウンターに、仕立ての良いスーツを見事に着こなした若い青年の姿がある。ウェーブがかかった柔らかそうな肩までの長さの髪、栗鼠色の温かみのある瞳。物腰の優雅さで育ちの良さがわかる。良家の子息然としているが、健康的にほんのりと日焼けした肌色が、闊達さを物語る。

 面会の受付を済ませ、その足は特別病棟に向かう。手には小さな包みと屋敷の庭に咲き誇っていたオレンジと黄色のバラを携えて。訪れた病室も、この青年が訪れるに相応しい格式を醸し出していた。病室でありながら、その設えは一流ホテルに引けを取らない。使い勝手の良さそうなアンティーク家具や小物など、癒しを与えるものばかり。
 部屋の中央に、病室用とは思えない立派なベッドが置かれている。その側のテーブルには大きな花瓶。その中の、この青年が先日見舞った時に持ってきた赤いバラの蕾が、そろそろ六分咲きになろうかとしていた。

 その花瓶の花を取り替えようと、青年はベッドの側に近づく。花瓶に手をかける前に、青年はベッドの上に人物に、そっと優しい瞳を向けた。

「天馬、おはよう。君はまだ、夢の国かい?」

 何度、この言葉をかけたことだろう。
 返事はない。
 この部屋の主である松風天馬が、目覚める事のない眠りに就いて、もう何年になるだろうか?
 思春期に入って間もない、まだ十五歳にもならなかった拓人が、今では成人しクラシック界の新星と称えられ公演ツアーのスケジュールに追われるようになるまでの時間、それだけの時間を天馬は少年の姿のまま、眠り続けている。
 
「目覚めたら、きっとびっくりするだろうな。それとも、がっかりするか? 俺が、今はサッカーをしていないことに」

 優しい眼差しの中に懐かしさと切なさが浮かぶ。
 拓人は花瓶を抱え上げると、病室外の洗面所へと向かった。


   ■ ■ ■


「まぁ、そのバラ、捨ててしまうんですか?」

 拓人が新しく持ってきたバラと活け替える為、花瓶の中のバラをゴミ箱に捨てようとした時だった。すっかり顔見知りになった看護士が通りかかり、そう声をかけた。

「ええ。新しいバラを持ってきたので……」
 
 はにかみながら拓人は答える。

「でも、勿体ないですよ! 満開までまだ間があるのに……」

 確かに活け替えようとしているバラは六分咲き、蕾の時期が終わったばかりだ。

「……このバラは、俺に取っては蕾だから意味があるんです。ああ、良かったらナースステーションに飾りますか?」

 にっこりと微笑んで、妥当な提案を口にする。

「いいですか? それじゃ、そこの深型洗面台に水を入れて付けておいてください。後で私が花瓶を持ってきますから」
「分かりました。それじゃ、付けておきますね」

 そんな会話をした後、拓人は新しいバラを花瓶に活け、天馬の病室に戻る。その花瓶をベッドサイドのテーブルに置くと、シックな室内が上品な華やかさに彩られる。

「今日のバラは、いつも明るいお前のイメージで色を選んでみたんだ。ぴったりだろう? ……そして、いつかお前が目覚めたその時には、満開の真紅のバラの花束をお前に贈ろう」

 花の色が天馬の頬に映えたのか、いつもより明るい表情の様に見えた。
 拓人はそっと真綿の掛布団の中にしまわれた天馬の手を取る。

「真紅のバラの蕾は、今の俺の心だ。今の俺には、こんな事しか出来ないから……」

 取った手に、そっと恭しく口づける。
 あの時、天馬が俺の心を開いてくれなかったら、今の俺はいない。

 鬱屈した心はピアノの音色も歪ませる。
 今のような、ピアニストとしての俺は存在できなかっただろう。
 こうして、曲を作る事も……

「そろそろ帰るよ、天馬。寂しくないように、オルゴールかけてゆくからな」

 バラの花束と一緒に持ってきた小さな包みを開けて取り出したものを、コトンとサイドテーブルの上に置いた。艶のあるバーガンディー色の木材で作られた小箱の中央には、ブルートパーズの澄んだ青色の石が嵌め込まれている。

「俺が作った曲だ。いつか、お前にタイトルを付けてもらおうと思っているんだ」

 オルゴールから流れ出す、小さな煌めくような音たち。
 拓人が閉めた扉の音はその音に紛れ、もし天馬が起きていたとしても拓人が部屋を出て行ったことに気付かなかったかもしれない。

 閉めた扉の前でしばし佇み、名残惜しそうに拓人はその場を離れた。


   ■ ■ ■


「あれ? 今のは拓人くん?」

 特別病棟のエレベーターの扉が閉まる寸前、優一は見慣れた青年の後ろ姿を見かけた。

「……天馬くんに会いに来たんだな」

 ぽそっと言葉が零れる。ふっと自分の腕時計を見て時間を確かめ、拓人が検温の邪魔にならないよう、その時間前に退室したことを知る。

「時間に正確だね、拓人くん。それじゃ、ナースステーションに戻って天馬くんのカルテを取ってこよう」

 優一は、天馬の現在の専任看護士である。天馬の専任看護士に優一がなれたのは、この病院の理事の一人でもある雷門……、いや円堂夏未の口添えがあったからだ。
 あの『事故』は、雷門中サッカー部として公式戦中の部活事故という扱いになっていた。雷門中では、預かっている生徒達の安全や事故の際の補償をとても重視している。それ故に、この長期に渡る天馬の療養生活も全て保険で賄われていた。それに加え、保険外の費用を、この円堂夏未が負ってくれていたのだ。もちろんそれは、夫である円堂守の気持ちを汲んでの事である。

 ナースステーションに戻ってみると、受付にそれは見事な真紅のバラが活けられていた。勿論、そのバラは優一に取って見覚えのあるもの。

「……あれ、天馬くんの病室から?」
「そうなんです。新しく花を持ってきたからって、あんなに綺麗なのに捨てちゃおうとしていたから」

 そう答えたのはあの時、拓人に声をかけた看護士だ。

「咲いちゃったら意味がないって、どういうことなんでしょうね?」

 と、まだ年若いその看護士は首を傾げている。

「それ、拓人くんが言った言葉?」
「ええ、そうなんです。よく映画なんかでは恋人に綺麗に咲いた真紅のバラを贈るシーンっていうのがあるじゃないですか。天馬くんは部活の後輩で、恋人じゃないからって意味なんでしょうかね?」

 優一は意味ありげに優しい笑みを浮かべて、この看護士を躱すことにした。

「そうだね、恋人じゃないだろうな。相手は眠ったままの、十三歳から年を取っていない少年だからね」
「あ~、そうですよね!! 拓人くんが熱心にお見舞いに通うから、すっかりそのことを忘れていました! 天馬くんって男の子ですよね!」
「おかしな話ですね。ちゃんと『くん』って呼んでいるのに、そのことを忘れるんですか?」

 優一は小さく笑いながらそう指摘すると、ナースステーションを出てゆこうとした。

「だって天馬くんって、天使みたいじゃないですか! だからですよ!!」

 そんな言い訳が優一の背中を追いかけてきた。


   ■ ■ ■


 「天使、か。確かにそうだな。君は俺達を未来に導くために、舞い降りてきたのかもしれない」

 幼い時の、ありがちな不幸な事故。

 兄である自分は、弟である京介の無事を喜んだ。自分の動かなくなった足と引き換えに。京介は、そんな兄の足を治すため、兄弟二人に取って宝物だった『自分たちのやりたいサッカー』を殺してまで、フィフスのシードになって高額の報酬を得ようとした。

 自分の所為で、大好きなサッカーが出来なくなった弟。
 自分の所為で、大好きなサッカーが出来なくなった兄。

 互いが互いの枷となり、日を追うごとに自責という名のその罪は膨らむばかりだった。それを解き放ってくれたのが、天馬だった。

 真っすぐな瞳で、真っ直ぐな言葉で!!

『出来ない!!』と、頑なになっていた京介の手を取り、大好きなサッカーのある場所へと連れ出した。

「ああ、それからだな。京介と一緒に君は、よく俺の見舞いに来てくれたっけ。シードを辞めて、本当の自分に戻った京介は、取り戻した自分のサッカーで生き生きとしていた。俺も、そんな姿を見てどんなに元気づけられたことか」

 懐かしむ、あの頃。
 今の様に、この二本の足で立つことは出来なかったが、練習の後などに二人で病室に顔を出してくれるのが待ち遠しく、試合中継で見る二人の姿に胸が熱くなる。戦勝報告とリハビリの経過を争う様に話していた、あの頃。


 幸せだったのかもしれない ――――


( 俺の天使たち ―――― )

 そして、あの事故。
 詳しい事は、その時の優一には何もわからなかった。ただ、瞳を閉じてピクリとも動かない天馬を見た瞬間、自分の中で大切な何かがガラスのように砕け散った気がした。

 しかし、優一はすぐ、そんな状態から立ち戻った。

 自分にとってはもう一人の天使である京介が、目を開けない天馬にすがって泣いている姿を目にしたからだ。

( ……俺がしっかりしないと! 今度は、俺がこの二人を守るんだ!! )

 それからの優一のリハビリに臨む気迫は、凄味さえ感じさせた。その気迫は、弟の京介にも向けられる。京介は天馬の事故のあと、辛うじて学校には通うものの、サッカー部には顔を出すこともせず、放課後は面会時間いっぱい天馬の側についていた。腑抜けたようになっていた京介に、優一は渾身の力を込めて車椅子から立ち上がり、一歩一歩巨石を負ったようなぎこちなさと覚束なささで歩いてゆく。

「兄さん……」

 京介が目を瞠る。

「……お前は毎日毎日、そこで何をしている? 大好きだったサッカーもせずに、抜け殻のようになって!! そんなお前を見て、天馬くんが喜ぶのかっっ!?」

 全身から噴き出す汗、途切れ途切れの言葉。その一つ一つが、優一の力強さの表れだった。その鬼気迫る姿は、ベッドの上で柔らかく微笑み、優しい声をかけていた優一ではない。

「俺は、天馬くんが目覚めた時に喜んで欲しいから! ここまで来た。お前なら、どうする!?」

 びくっと京介の体が揺れた。はっと目覚めたような顔をしている。

「お、俺は……」
「お前は、何をすれば天馬くんが喜ぶか分かっているだろう?」
「………………」

 言葉は無かった。
 ただ一度、深く頷いただけだった。

 それからも、京介は毎日見舞いに来た。
 練習で真っ黒になったその後で、天馬を見舞い、最後に優一の所に顔を出す。そんな時間が、しばらく続いた。


   ■ ■ ■


 優一が天馬の病室に入ると、かすかに間遠くなっていたオルゴールが鳴り止んだ。朝、検温に訪れた時と異なるのは、ベッドサイドの花瓶に活けられた花の色と側に置かれた新しいオルゴール。今まで拓人が持ってきた数多くのオルゴールは、アンティークな飾り棚の中にきちんと並べられ、時々棚の上のオルゴールと取り替えられる。蓋を開ければ、いつでも音が流れ出すようにねじをきちんと巻いた状態で。このオルゴールのお蔭で、このフロアから綺麗な音が途絶えることはなかった。

「ああ、どちらも天馬くんらしいな」

 温かな優しい眼差しで、天馬に注がれる拓人の想いを感じ取る。

「では、脈を拝見」

 先ほどまで、拓人が触れていた天馬の手を取り脈を計る。次に体温計を取りだし、上掛け布団を少しずらして肩口を出し、パジャマの前ボタンを二つほど外すと、脇の下に体温計を差し込む。待つほどもなく、ピピピっと計測が終わった電子音が小さく響く。

「ふむ、体温は36.7度、脈拍異常なし」

 それから呼吸数を計測し、最後に手首に巻くタイプの血圧計で血圧を測る。

「……本当に天馬くんは『眠っている』だけ。それ以外は、至って健康体だし」

 計測器具一式を片付けながら、そんな天馬の様子を見る。

「だけど、今のその状態が『尋常じゃない』と言う事も事実。意識が戻らない植物状態の患者さんもいない訳じゃない。でも、栄養補給せずに生きていられる人間はいないんだよ?」

 まさしく天馬は、現代医療の常識を超える存在だった。
 十年間も眠り続け、外部からの水も栄養も必要としないモノ。
 その姿は十年経った今も、あの頃の少年のままで。

 天馬が昏睡状態になった時、応急処置として点滴が施された。しかし、なぜか落とされる点滴液を、天馬の体は拒否した。点滴の針は間違いなく刺されているのに、何時間たっても点滴液が無くなる事はなかった。
 この異常事態に、担当の医師は慌てた。栄養や水分が補給出来なければ、人間の体は持たない。何度やっても受け付けない状況に、担当医師はそれならばいっそのこと直接胃につながる穴を腹部の皮膚の上から開け、栄養分を流し込む胃瘻(いろう)を行うと言いだした。

「……天馬くんの体に傷をつけることになるから、京介が物凄く反対したっけ。尋常な状況じゃなかったから、ギリギリまで様子を見ることになって……」

 その結果、今の天馬には栄養補給の必要性はないと、判断された。その事実は一部の関係者に知らされたのみで、こういった大きな総合病院では珍しいことだが、直ぐに天馬専任の口の堅い看護士がついたのだった。

「お蔭で、傷一つ無いきれいな体だけどね。ああ、でもそろそろ清拭じゃなく、入浴させた方がいい。となると、人手が欲しいな」

 この病室の浴室には、入浴介護のための装置がある。これを使うと一人でも入浴させることができるが、それはまるで装置にベルトで固定された人形を扱うような感じで、あまり天馬に対して使いたい装置ではなかった。

「でも、大丈夫か。そろそろ、あいつも来る頃だし」

 そう、優一は呟いた。


   ■ ■ ■


「済みません。午後から時休取ってるんで、連絡事項などは後でお願いします」

 午前中の授業を終わらせると京介は、そう教職員室にいた教頭に声をかけた。

「あ、ああ。病院のお兄さんの手伝いですね。感心ですねぇ、剣城先生はまだこんなにお若いのに、ずっと病院に通って介護を続けているとか。なかなか出来ませんよ」

 教頭は眼鏡に手をやりながら、新任教諭である京介の人柄を褒める。

「いえ、もう習慣ですから。部活の時間までには戻ります」
「はい、分かりました。早く良くなるといいですね、お兄さん」

 ……微妙な錯誤があるようだが、それはそのままにしておく。

 嘘は言っていない。
 看護士をしている兄の務めている病院で、その兄の手伝いをして天馬の入浴介護をする。週に二回のこの手伝いは、優一が天馬の専任看護士になる前から京介が行っていたものだ。京介も兄・優一同様、装置にベルトで固定された天馬の姿が痛々しく命の無い人形のように目に映るのも嫌で、またそんな一糸纏わぬ姿をいくら優秀な専任介護士でもその目の前に晒すのは、なぜか腹に据えかねるものがあった。

 そんな事を思いつつ、早足で病院に向かう。第二の我が家の様に、すっかり勝手知ったる病院内を最短距離で移動し、天馬の病室へ。

「遅くなったか?」

 優一の姿を見て、最初の一言。

「いや、大丈夫だ。丁度今、風呂の支度が出来たところだから」

 そう言いながら優一の手は、湯上りの天馬の体をふく大判のバスタオルや洗濯したてのパジャマの準備に余念がない。

「じゃぁ、俺も用意しよう」

 京介も、手早く衣服を脱ぐと優一が用意してくれていたタオルを腰に巻き、その間に寝ているベッドの上でパジャマを脱がされ裸になった天馬を姫抱きにすると、病室についている広めの浴室に足を踏み入れる。優一もすぐその後に続く。

 京介は腕に天馬を抱えたまま、軽々と浴槽の縁を乗り越え、適温の湯が張られたその中に、天馬もろとも体を浸す。そう、若い父親が生まれて間もないわが子を胸に抱いて入浴する図を思い受かべてもらえばいいだろうか?

「天馬くん、気持ちよさそうだね」
「ああ。身体の硬さが少し抜けたようだ」

 湯船の向こうから優一が、優しく天馬の肌をシルクタオルで拭う様に撫でている。柔らかい癖毛は湯に濡れて、ぺしょんと額や頬に張り付く。艶や弾力を失わない手足は、フィールドを駈けまわっていた頃の健やかな少年のもの。そんな少年の体をした天馬を抱きかかえる自分の手を見て、寂しそうに京介が呟いた。

「……この手の大きさの違いが、過ぎた年月の長さなんだな」
「京介……」

 もっと思う事はあるのだろうが、京介はそれ以上口にすることはなかった。


   ■ ■ ■


 とぷん

 柔らかで暖かい波が緩く緩く、この何もかも閉じ込めてしまった最奥の岸辺に寄せてくる。優しい振動に、ゆっくりと浮かび上がる。

( ああ、気持ち良いなぁ )

 そう感じさせるものは、幾重にも覆われたずっと向こうにあるものだけど、それは確かに自分に向けられた優しい手なのだと感じることが出来る。
 
( もう少し、このままでいたいようなそんな気持ち良さだなぁ )

 ぷくん

 辛うじて感じたこの心地よさに誘われ、またも自分は眠ろうとする。


 ドクン ドクン


( ―――― !! ―――― )

 聞こえた、鼓動。
 自分の心臓のすぐ側で。
 何も隔てるもののないままに。

 ドクン、ドクン、ドクン ――――
 ドキ、ドキ、ドキ、ドキ ――――


( 誰? 誰か、側に居るの? )


 ドキドキドキドキ、ドキドキ ――――


 自分の心拍数が上がるのを感じた。
 すると同時に、自分の体がぎゅっと大きな熱い手で抱きしめられた。

 それは天馬が自分を閉じ込めた殻を割る、最初の小さな衝撃だった。



   ■ ■ ■


「いつもありがとう、本当に助かるよ」
「……俺にとっては当たり前の事だ。こうして天馬を入浴させるのは、兄さんが天馬の専任看護士になる前からの事だし」

 入浴の後片付けをしながら、優一がにこやかに微笑む。

「ああ、そうだったね。もう少し、ここにいるんだろう?」
「部活もあるから、この髪が乾いたら行くよ」
「じゃぁ、それまで天馬くんの様子見てもらってていいかな? 洗濯物を片付けてきたいんだ」
「そのくらいなら、構わないさ」

 さらに笑顔を浮かべて優一は、天馬の病室を後にした。
 京介と天馬が、二人だけで過ごせるように ――――

 湯上りで頬を桜色に染めた天馬が、京介の傍らで夢見るような笑みを浮かべて眠り続けている。まだ少し湿っている柔らかい天馬の髪を撫でながら、京介は言葉を紡いだ。

「なぁ、天馬。お前、今どんな夢を見ているんだ? もう、そろそろ起きてこいよ。そして俺とまた一緒に、夢を叶えようぜ」

 今となれば、京介に取っては天馬を目覚めさせる事が、目標で夢だ。
 髪を撫でていた手が滑り落ち、頬をかすめ、唇に触れる。顎を伝い首筋から、肩へ。そのまま腕のラインを巡って、掌へ。自分の手で、すっぽり包めてしまうほど小さな手を強く握りしめ、押し殺した低い声で、思いの丈を絞り出す。

「早く…、早く起きてこいよ!! 天馬ぁ! 俺の手が、皺くちゃな爺さんの手になる前に!! お前と一緒に走れるうちに……」

 過ぎてしまえば、この十年。

 あっという間だった。
 確かに自分は天馬の同級生だったのに、今の自分の姿はどうだろう?
 こんな風に時が過ぎてしまうのなら、天馬は少年のまま、自分だけ年を取って行く。それが、とても恐ろしい事の様に思えた。
 時の岸辺に一人取り残される天馬を思うと、この心が引き裂かれそうになる。

 誰もいなかったから。
 その時、そこには京介と天馬しかいなかったから。

 押し殺しきれなかった衝動に、京介はベッドで眠る天馬を抱き込み、強く強く抱きしめた。眠りの海で溺れている、天馬の息を吹き返させようと、胸一杯の想いと共に熱く強く口付ける。

 何度も何度も、息を吹き込むように。


   ■ ■ ■


ピシッ

 どこかで、何かにひびが入るような音がした。

( うん? なんだろう……? )

 プカリ

 そんな思いが浮かんだ。
 浮かんだ思いは今度は消えることなく、上へ上へと上昇しずっと高い所で小さな波紋を広げた。広がった波紋の隙間から、細い光が差し込んでくる。
 光は、誰かの想いを一緒に連れてきた。
 光が触れる。
 触れて、それは形になる。

( 熱い……。なに、これ? 手? )

 俺に触れる手の中で、一番好きな熱くて大きな手。
 その手が、ぐぃと俺を光の方へ引き上げてゆく。

 ゴボリ

 今まで平気だったのに、途端に息苦しくなりむせて大きく息を吐いた。
 息苦しくなったのは、何かに強く締めつけられているから。
 これは ――――

( 腕? でも、誰の……? )

 息苦しい肺に、人工呼吸するようにその誰かが熱い吐息を吹き込んでくる。
 触れた唇は火傷しそうに熱い。

( 知ってる……? 知らない、これは誰? )

 ゆらゆらと、波に拡散しそうな意識を辛うじて保つ。

 知っているのは、いつもこの腕だったということ。
 知らないのは、その腕の持ち主の事。

「天馬ぁ、天馬……」

 『音』が聞こえた。
 意味は、分からない。
 でも、その『音』はとても嬉しく、自分の中に染込んでくる。
 もう一つ、『音』が響く。

 ドク、ドク、ドク ――――

 少し早い鼓動、命の音。

( 知ってる!! この音は、あの時の! )

 時の流れが止まっていた意識の中で、『今』を起点に『あの時』という過去が、はっきりと浮かび上がってくる。
 『いつも』という、あやふやな時間ではなく。


 ドク、ドク、ドク、ドク ――――
 ドキ、ドキ、ドキ、ドキ ――――


 二つの心音が、調和した。
 
『今』を感じた。
『今』しか、感じなかった。

 全てを真っ白にする光が溢れた。
 殻が、割れていた。


   ■ ■ ■


 強く抱きしめられて自由を失くした腕の先、京介が握りしめた小さな手の指先が、ピクリと微かに動く。何かを探すように指先は中空を彷徨い、触れた京介のシャツをほんの僅か掴んだ。

「 ―――― !!」

 その感触に気付いた京介が、信じられないものを見るような眼で、間違いなく自分のシャツを掴む天馬の手を見ている。

「天…馬……? 天馬、お前っっ!?」

 慌てて天馬の顔を覗き込む。
 この十年、閉ざされたままだった天馬の瞼が開き、澄んだ青い瞳には泣きそうな顔をした京介自身の顔が映っている。

「きょう……すけ」

 天馬の口から零れる、自分の名!!
 それが、これほど美しい響きで聞こえたことはなかった。

「天馬! 天馬っっ!! 俺が判るかっっ!?」

 食い入るように京介は、天馬の顔を見つめた。

「きょう、すけ」

 もう一度、天馬はそう繰り返した。

「ああ、そうだ! 京介だ。俺が京介だ!!」

 嬉しさで、京介はもう一度天馬の体を力いっぱい抱きしめた。
 小さな頭を自分の頭の横に抱き込むように、零れる嬉し涙を隠すように。

「きょうすけ」
「ああ、そうだ」
「きょうすけ」

 同じ調子で、繰り返す。

「きょうすけ」
「天…馬?」

 ざわっとしたものを感じて、京介は強く抱きしめていた腕を緩めた。

「お前……」

 天馬の青い瞳には、確かに京介自身の姿は映っている。
 そして、たった一つの『音』をオルゴールの様に繰り返す。
 『きょうすけ』と言う『音』を。






 ―――― 目覚めた子どもは、全ての記憶を失っていた。



 
   2011年10月08日脱稿






    === あとがき ===

10月8日、京天の日! と言う事で、前回書いた「お前は愛しき眠り姫」の続きですv 
みんなの『想い』が通じて、とうとう天馬は……、な感じの話。

■10/10 RL18位にランクインしました♪


















  
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Date:2012/03/17
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