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□ 子どもの情景シリーズ □

見知らぬ国と人々について


「てんま」

 俺を呼ぶ声。

「てんま」

 優しい声。

「てん…、ま?」

 俺がそう、繰り返す。

「天馬……」

 辛そうに、俺の目の前にいる人が俺をそう呼んだ。


   ■ ■ ■


「天馬、支度は出来たか?」

 下から俺を呼ぶ声がする。
 俺は色々あって、結局俺が昏睡状態中ずっと俺の世話をしてくれていた剣城さん兄弟の家に居候させてもらう事になった。

「あ、はい! 今、行きます!!」

 俺は新しい雷門中の制服を着て鞄を下げ、階段を駆け下りて玄関に向かう。

「慌てると怪我をするよ、天馬くん」

 夜勤明けの優一さんが、ふわっとした耳に柔らかな声をかけてくれる。それに反し、もう一人は ――――

「急げ、天馬! 初日から遅刻する気かっっ!!」

 尖った声で、俺の背中をグイグイ押してくる。
 
「ははは、京介は風紀担当だからね。遅刻には厳しいぞ、天馬くん」
「え、そ、そうですか!」
「はっ、この俺が天馬を遅刻させる訳ねーだろっ!? 同じ家で暮らして、同じ学校に通うんだからさ」

 そう、俺は雷門の生徒で、京介さんは雷門の教師。
 だから、俺が剣城家の居候って言うのは、学校では秘密なんだ。やっぱり、色々面倒な事があるらしくて。

 俺は自分の事を、何も思いだせない。
 記憶の中でも、そういう『思い出』の部分がすっぽり抜け落ちている。幸い、『知識』としての記憶は残っているので、生まれたばかりの赤ちゃんみたいな事にならないで済んでいる。

 京介さんも優一さんも何も言わないから俺も聞けずにいるけど、どうやら俺は『孤児』のようだ。俺に『天馬』と言う名前を教えてくれたのは京介さんだったし。

『松風天馬』、それが俺の名前。

 俺の側に居てくれた剣城さん兄弟、上品な振る舞いで何も言わなくても立派なお家の坊ちゃんなんだろうなと思う拓人さんは神童という姓だ。他にも変わったサングラスが印象的な鬼道さんとか、俺が通う事になった雷門中の理事長である円堂夫妻とか、皆俺の事を心配して、それから俺が困らないよういろいろ手配してくれた。

 ……そう、俺の側には『松風』の名前の人は誰もいない。

 その事実があるからこそ、俺はどうしてか分からないけど(……記憶が無いから)、『親』はいないんだろうと理解した。
 そう思うと、感謝の気持ちで俺の胸はいっぱいになる。京介さんや優一さんの俺への接し方を見れば、どんなに俺の事を大事にしてくれているか、ひしひしと伝わるから。それと同時に、俺は申し訳なくもなる。
 俺には、この二人に関しての記憶がない。どこで出会って、どんな関係だったのか。いや、他のどんなものに対しても。

 そんな俺だけど、あの時俺の口をついた言葉だけは、覚えている。

( ……あの時、俺は『きょうすけ』って呼んだんだよな。今の俺にとって一番古い記憶が、その名前。それがあるから俺と京介さんとの間には、きっと何か強い繋がりがあったんだと信じられるんだ )

 それだけが、俺が頼れるたった一つの縁(よすが)。
 そうじゃなければ、俺は一人で見知らぬところ、見知らぬ人々の中に放り出された、迷子のようなものになってしまっていただろう。

「本当にありがとうございます。京介さん、優一さん。こんな俺の面倒を見てくれて。俺、学校じゃ京介さんのご迷惑にならないよう、がんばります!!」
「天馬……」
「あっ! 呼び方も気を付けなくちゃ!! 京介さんじゃなくて、剣城先生ですね!」
「………………」

 あれ? どうしてだろう……?
 京介さんの表情が、ふっと沈んだような気がした。


   ■ ■ ■


「うわぁぁっっ!! やっぱり雷門中って凄いですね!!」

 登校初日、俺は雷門中の校門の前で威風堂々と聳える校舎を見上げ、そう歓声を上げていた。体の奥からワクワクしたものが湧いてくる、これは、きっと ――――

「……やっぱりって、お前何か雷門中の事を覚えているのか?」

 俺の隣にいた京介さんが、少し驚いたような顔をして俺に聞く。

「ん~、記憶というより『知っている』んです。雷門中がサッカーの名門校で、十年前にFFIで世界一になった事とか」
「十年前……」
「それまでサッカー部の無かった雷門中にサッカー部を作ったのが、円堂守さんだって事とか」

 病院に滞在中に、その円堂さんが俺のお見舞いに来てくれた事があった。その時知ったのだけど、円堂さんは結婚していた。当時の理事長の一人娘と。だから、今じゃ雷門中の理事長は、円堂さんらしい。俺は俺が『知って』いる、そんな事を思い返しているうちに胸のワクワクがますます強くなってくるのを感じた。

( ……もしかしたら俺、物凄く雷門中に来たかったのかもしれないな。ここに来て、何をしたかったのかは思いだせないけど )

「行くぞ、天馬。理事長室で、その円堂さんが待っている」
「えっ!? 本当ですかっっ!! でも、どうして……?」
「お前に、色々話したい事があるそうだ。……お前が眠っていた間の事でな」
「俺が眠っていた間? でも、俺何も覚えていないから、答えられなかったらどうすれば……?」 

 そう俺が聞き返しても、京介さんは何も言ってくれなかった。
 俺が『事故』で記憶を失くした間に、色んなことがあったのかもしれない。

( 記憶を失くして、病院で目が覚めるまでの間ってどのくらいだったんだろう? 見た目も中学生くらいだし、貰った中学一年生の教科書の内容は何となく知っていたから、そんなに長い間は眠ってなかったんだと思うけど  )

 それは俺が知っている知識から、引き出した答え。人の体は眠っていても変化する。子どもだったら成長するし、大人だったら老化する。でも、頭の中身はその眠った時点で保存されるから、目が覚めた時、体と頭の中身でギャップが出るんだ。

( 良かった~、俺。体は大人、頭脳は子ども、じゃ恰好悪いもんね )

 そんな事を思いながら京介さんの後をついてゆく。ぴたっと京介さんの足が重々しい厚い木の扉の前で止まる。重々しい厚い木の扉には、『理事長室』というくすんだ金色のプレートが掛かっていた。

 コンコン、京介さんが扉をノックする。

「今日から登校する、松風天馬です」

 俺の代わりに、そう名乗る。

「お入りなさい。皆、もう待ってますよ」

 中から聞こえたのは、若い女の人の声だった。

「失礼します。さ、中に入れ。天馬」

 俺は京介さんに押される様に、先に理事長室に足を踏み入れた。理事長室はとても明るく、真正面に大きくて立派な窓がある。その前に、これもまた大きな立派な机があって、その机に長い髪の綺麗な女の人がゆったりと大きな椅子に腰かけていた。

「退院おめでとう、松風天馬くん。私が雷門中学校理事長の円堂夏未です」

 円堂夏未と名乗った綺麗な理事長先生は、俺の方を見てにっこりと笑いかけてくれた。

( 円堂夏未、円堂夏未……、って、円堂さんの奥さんっっ!! )

 病院で会った時は円堂さん一人だったから、まさかこんなに綺麗な人が……!!

「あ、はいっ! ありがとうございます!! 俺、理事長先生はてっきり、円堂さんだと思っていたから、びっくりして……」
「おい。俺もちゃんといるぞ?」

 その声は、俺が入ってきて扉のすぐ横から聞こえてきた。

「円堂さん!!」
「もう、すっかり元気になったみたいだな?」
「身体は十分元気です!! あと、もう少しここが良くなれば……」

 と、俺は自分の頭をこんこんと叩いてみせた。

「……どうだ? 雷門に来て、なにか思いだせそうか?」

 この声も聞き覚えがある。あの変わったサングラスをいつもかけている、鬼道コーチの声だ。

「思い出すと言うよりも、『知っている事』の確認みたいな……?」

 俺の返事を聞いて、ほんの少し部屋の空気が動いたような気がした。理事長室には他にも、拓人さんや俺の担任だと紹介された面白い頭の若い男の先生も一緒だった。


   ■ ■ ■


 理事長室で天馬は、退院してから何か思い出した事はないかと、皆から尋ねられた。その問いに、天馬は静かに首を横に振る。では、と切り出した鬼道コーチが、天馬に『知っている事』を話せと促した。

 その結果、天馬の『知っている事』は、先に聞いたサッカー名門校としての雷門の存在で終わっていた。

「……やはり、そうですか」
「話には聞いていたが、本当なんだな」

 がっかりした様子の神童と三国。
 十年前、天馬が現れなかったら、ここでこうしている事さえなかっただろう神童キャプテンと三国先輩。自分たちの在り方が、大きく変わったのは天馬と共にフィールドを駆け抜けた日々があってこそ。それは何物にも代えがたい、宝物だ。

 それを、天馬は覚えていない。
 神童キャプテンを動かした言葉も、三国先輩がかつての自分を思い出せたのも、全ては天馬が ――――

( 俺も、そうか。天馬、お前がいなければ俺は、こんな真っ当な陽の下に立っていることは出来なかったかもしれない )

 フィフスセクターのシードとしてサッカーを汚し続けて、自分を殺し続けて、そしていつかは……。

「あの、俺……」

 周りの雰囲気を察したのか、申し訳なさそうに天馬が声を上げた。

「済みません。本当に、何も覚えてなくて……」

 その様子に、皆はっとなる。

「いや良いんだ、天馬。お前が悪い訳じゃない。お前は、退院したばかりなのだから、これから少しずつ思い出してゆけばいい」
「拓人さん……」
「俺達皆がついてるから、心配しなくていいからな?」

 神童キャプテンの声は、その指が奏でる演奏ように優しく心に染込むようだと、俺は思う。天馬が眠りにつく前は、変わらないくらいの体格だった二人だったのが、天馬はあの頃のまま。大人になった神童キャプテンが、そっとその肩を包み込んで天馬の気持ちを落ち着かせる。

 落ち着いた頃を見計らって、三国先輩…… いや、三国先生が理事長に声をかけた。

「理事長、そろそろ天馬をクラスに連れて行っていいですか? クラスの皆も新しい仲間の到着を待ってますから」
「ええ、そうね。よろしくお願いするわ、三国先生」

 そうして、天馬は三国先生に連れられ自分の教室へと向かう。
 二人の足音が完全に消えた頃、重々しく鬼道コーチが声をあげた。

「ふむ、見事なまでに『自分に関してと自分に関わった人間や事柄の記憶』のみが消えているな」
「あの時、天馬は頭部に損傷を受けた訳じゃないよな?」

 と、円堂監督。

「……頭部、というかあの時は俺達全員、満身創痍でしたから」
「交通事故みたいな、明らかな頭部損傷はなかったと思うが、その裡(うち)は分からない」

 神童キャプテンの言葉に続いて、俺も発言する。

「……裡は分からない、か。あの後、フィールドで倒れた天馬を病院に運び、CTスキャンもMRIも撮ったが異常はないと、診断医は言っていた。昏睡の原因も分からないと」

 鬼道コーチの声だけが響く。

「これが事故などで、明らかに脳を損傷し機能障害を起こしているのなら、昏睡の原因も、今の思い出に関しての記憶のみの喪失も説明がつく」

 そうではない事は、ここにいる誰もが感じている事。

「やはり、あの時の『超化身』が原因でしょうか?」

 沈んだ声で、そう神童キャプテンが呟いた。

「神童……」

 あの時の、俺や神童キャプテンの心持ちを推し量って、心配そうな響きを含ませ円堂監督が声をかけた。続くのは、鬼道コーチ。

「おそらく、な。天馬も化身使いではあったが、神童や剣城とは違っていた」
「…………………」

 俺は押し黙るしかない。俺と天馬の違いは、自分が嫌になるほど身に沁みて知っている。天馬の化身は……

「総べる力。個々なる力を一つに出来る、『絆』を結ぶ事が出来る力だ」

 ああ、あの頃の皆の気持ちを一つに纏めたお前らしい『力』だと、俺は思う。そんな俺の感慨を余所に、鬼道コーチの説明は更に続く。

「だけど、その『力』は天馬の体力や能力のキャパを遥かに越えるものだった。あの昏睡状態は、天馬が焼き切れる前の強制終了のようなものだと俺は解釈している」

 ……なんて判りやすい説明だろう。
 人としての最低限な情報は別な場所に保存されたまま、『松風天馬』というパーソナル情報の入った部分だけが、その強制終了の時に破損したということか。そして破損した部分が復旧出来るかどうかは、誰にも分からない。


   ■ ■ ■


「あの、それでは天馬くん自身には、どれだけ『自分の事』を教えたのですか?」

 鬼道コーチの説明を聞いていた夏未理事長が、そう質問した。その質問を聞き、理事長室の視線が俺に集中する。

「あ……、天馬には出身が沖縄だと言う事と、早くに両親を亡くし、奨学金を受けられることになったから、雷門に進学したと教えてあります」

 本当は、雷門でサッカーはしたかったからという理由は、敢えて教えていない。

「半分嘘で、半分本当の事、か。両親の代わりにお祖母さんがいたんだけどな。それも、この十年の間に……」
「今更知っても、取り返しのつかない悲しみなら、伝えずに済ませたいと思うのが人情か」

 過ぎてしまった十年の重みを、円堂監督と鬼道コーチが口にする。

「あまり大きくかけ離れた嘘は、違和感を持たせると思い、昏睡する前の天馬はサッカー部に所属していたとも伝えています。その練習中の『事故』で意識不明になっていたと」
「……練習中の『事故』? では天馬には、十年間昏睡していたんだとは伝えていないんだな?」

 確認するように、神童キャプテンが俺に訊く。

「あ、ああ。『松風天馬』としての記憶がないあいつに、さらに追い打ちをかけるような気がして……。あいつの本当のクラスメイトや部活の仲間が、今ではもう大人になってしまっていると知ったら、自分だけ『取り残された』と知ったら……」

 そう伝えながら、俺は天馬の為だけでなく、自分の為にもその事実を伏せたのだと自覚していた。

 ……認めたくないのだ、俺は。

 子どものままの天馬では、その傍らに俺はもう寄り添えないと言う事実を。
 あの頃は、間違いなく同じ場所に立っていた。
 それから、互いに理解し合い、時を重ねてもっと歩み寄って、思い出を共有して……。

 その先にあるものを、俺は夢見ていた。

「……それは、そうね。自分の周りの人たちが、それも親しかった皆が自分だけを残して、大人になっていたらどれだけ心細いでしょうね」

 夏未も、そう思う。
 自分が中学生で、円堂が大人。
 世界を駆け巡る翼を持つ存在だけに、きっと子どもの自分では追いつけないと思ってしまうだろう。もしそうなら、今こうして結婚など出来なかったかもしれない。

「ふむ、それはどうだろう? むしろ個人情報が白紙の今の方が、天馬に取ってダメージが少ないのではないか? お前は覚えていないだろうが、あれからもう十年経ったんだぞ、と。幸い、お前の肉体的年齢も止まっていたから、今からまた『その時』を刻み始めればいい、とな」

 ……そう言う事なのだ。

 俺は、くっと拳を握りしめる。 
 十年前、天馬の傍らに俺達がいたように、今度は現在の新しいクラスメイトや部活仲間が、天馬の周りを取り囲むことになる。その輪の中に、俺は……、いや俺達は決して混じる事は出来ない。俺達の『その時間』は、十年前に終わっている。

 それを俺は、認めたくなかった。

「剣城……」
「神童キャプテン……」

 俺達の想いは、同じだ。
 想いはあの時のまま、俺達は大人になってしまった。

「……済みません。天馬にその事実を伝えるのは、俺じゃ無理です」
「剣城?」

 鬼道コーチのサングラスの下の瞳が、眇められたような気がした。

「天馬に……、京介さん、剣城先生と呼ばれて動揺している俺じゃ……」

 俺の耳には今でも、あの声しか響かない。


 ―――― 剣城っっ!! ナイスシュートっっ!!!

 ―――― ねぇ、京介? 今度さ……


 俺に向けてくれるその笑顔、お前にそう呼ばれて震える胸の鼓動と身体に広がる甘やかな想いを、俺は無かったことに出来はしない。
 神童キャプテンの手が、俺の肩を小さく叩く。

「……俺も、同じだ。あの天馬から他人行儀に『拓人さん』と呼ばれた時の、背筋に走った冷たい感覚。記憶が無いだけでなく、その記憶を伝える事が自分の想いの息の根を止める様で……」

 俺達はもう、子どもじゃない。
 想いのままに走り抜けられる時代は、疾うに過ぎてしまった。
 今から、新しい『記憶』を積んでゆく天馬が、あの頃の様に俺達を見てくれる訳もない事を知っている。
 俺達の想いを、天馬に押し付けることも出来ない。
 ましてや、大人と子どもで……、無理強いはそのまま犯罪行為だ。

 大人と子どもでも、記憶があれば……。
 そう、天馬がどちらかの手を選んでくれるのなら、今まで十年待ったのだ。あと十年くらい待つのは、少しも苦痛ではない。

 戻る事のない天馬の記憶は、何にもまして至宝のように思えた。


   ■ ■ ■


 俺は担任の三国先生と一緒に、自分の教室である一年三組という札のかかった教室に足を踏み入れた。
 教室に入った途端、クラス中がしんとなる。

 つかつかと教壇に上がる、三国先生。俺もその隣に、ちょこんと並ぶ。

「あ~、今日からこのクラスの一員となる松風天馬くんだ。松風くんは入学したばかりの時に、事故でしばらく入院していた。その事故の後遺症で、記憶喪失になっている。色々判らなくて困る事もあるだろう。そんな時こそ、クラスメイトの協力が必要なんだぞ」
「はい! 先生っっ!!」

 しんと静まり返った生徒達から、元気な返事が返ってくる。

「松風くんの知らないことが有れば、皆で教えます!! 記憶や思い出が無いなら、今から皆で沢山作って行けばいいと思いますっっ!!」

 そう発言したのは、しっかりした感じの女の子だった。
 俺の記憶喪失の件は、下手に伏せるよりはクラス皆の公認の事実として既に周知されていた。

 俺はこのクラスが、好きだと思った。

「ねぇねぇ、松風くん。今の授業、分かった?」

 クラスに編入してすぐの授業は国語、その授業が終わるとさっきクラスを代表するように宣言した女の子が、そう尋ねてきた。

「あ、うん。大丈夫。教科書に載っている漢字もちゃんと読めたし、内容も分かったから」
「ふう~ん。記憶喪失って、勉強も分からなくなるのかなぁって心配したんだけど」

 今時珍しい、三つ編み眼鏡のその女の子が首を小さく傾げる。

「俺にも良く分らないんだけど、『知っている』事は忘れていないんだ」
「知っている事は忘れてない?」

 俺の言っている意味がよく分らなかったのか、三つ編みを揺らしながら頭を捻っている。

「そう。例えば今はもう十一月だから、そろそろ季節は冬だとか、冬休みは十二月の二十五日からだとか」
「うん。それで?」

 女の子が先を促す。

「だけどこの前の冬は、自分がどうやって過ごしたかは覚えていない。今まで自分が、どう暮らしてきたかや、何を思って生きていたかは…… さ」

 忘れているんだよ、という言葉は声にならなかった。声が尻すぼみになったことに気付いたクラスメイトの数人が、俺の肩を後ろからポンと叩く。

「今日、俺は一年三組に編入しました。面白い奴らがいるクラスでした」
「クラス委員はおせっかいな三つ編み眼鏡です。俺に気があるのかもしれません」
「それよりも俺は、給食の献立の方が気になります!!」

 と言って、俺を囲んでどっと笑う。

「えっと、あの……」

 俺の肩を叩くのが、ポンからバンバンに変わる。

「なぁ俺達に任せろって!! 松風が『記憶を忘れている』って事を忘れるくらいに、いっ~ぱい色んなことして楽しもうぜ!」

 そう言ったクラスメイトも周りの皆も、にっと向日葵のよう笑顔を見せてくれた。

「へへ、ありがとう! みんな!!」

 俺に向けてくれる笑顔が嬉しくて、俺は目元を滲ませながら笑った。


   ■ ■ ■


「……もう、クラスには馴染んだみたいだな」

 天馬が編入してから一週間。
 俺は二年生の教室で、数学の例題を解かせている間、何気なしに視線を向けたグランドで、クラスメイトと一緒に体育の授業でサッカーに興じている天馬の姿を見た。

 あの日から聞かされる、天馬のクラスメイト達の話。それは嬉しそうに楽しそうに。天馬の性格は、良く知っている。人懐こくて、前向きで、そしてちゃんと周りも見ている。自分の意志を持って、真剣に接する天馬には、どこか人を惹き付ける魅力がある。

 今もあの頃の様に、天馬の周りに『輪』が築かれつつあるのを俺は見ていた。同じ年頃の仲間と、元気に駆け回る。大きな声で笑い合って、女の子の事でからかわれたりして。本当に今の中学一年生を謳歌している。

 そこは、俺が決して入ってはいけないフィールド。

 天馬も学校での事を良く話してくれるのは、俺や兄さんを安心させるためだと分かっている。天馬の話を聞く兄さんは、にこにことやはり嬉しそうに聞いている。今まで深い眠りの底で止まっていた時間が動き出したのを確認するように。

「……先生! 剣城先生!! 例題、終わりました!」

 その声で、俺は物思いから覚める。目の前には、次の指示を待っている生徒達。

「あ、ああ。それじゃ、次のページの一次関数の説明に入る。ここは大切なところだから、判らなかったら判るまで繰り返しやるからな」
「は~い!!」

 生徒たちの視線を背中に感じながら、一次関数の式を黒板に書いてゆく。天馬も、この生徒達と同じ。否応にも、今の自分と天馬の『立場』の違いを実感する。

( 剣城先生、か。天馬も俺を見る視線は、この子たちと変わらないのだな )

 記憶が無い天馬に、ずっと抱き続けてきた想いを知られる訳にはいかない。あの頃だって、晩生だった天馬だ。それが同性の、しかも大人からのそんな感情を向けられたら、きっとおぞましく感じて、手の届かない所に逃げてしまうだろう。

( ……多くを望むな! 俺達を信頼して、いつも笑顔を見せてくれる今を、幸せと享受しておくんだ!! )

 俺のチョークを握る手が、小さく震えていた。


 二人が登校した後の、剣城家。

 今日は休み明けの準夜勤だから、優一はゆっくり家の事を片付けられた。男兄弟二人の暮らしでも、それぞれそこそこに家事をこなせるので、そう困った事もない。

「さて……。早めだけど、夕食の支度をするか」

 優一が看護学校を卒業した年、京介は大学の一年生の時に、仕事の都合で両親は地方に転勤になった。いつ戻るか予定のない転勤、おそらく定年まで戻ってこないだろうと聞かされていた。

「まぁ、そんな事情だから天馬くんを預かりやすかったんだけどね」

 優一の手は器用に玉ねぎをみじん切りにしてゆく。それから炒め粗熱を取ると、冷蔵庫から取り出した牛ミンチと合わせ、丁寧に捏ねてゆく。つなぎに卵と少量のパン粉、味付けはハーブソルトにナツメグとブラックペッパー。

「煮込みハンバーグ好きだよね、天馬くん。俺がいなくても温めやすいし、冷めてパサつくこともないからね」

 ハンバーグのタネを捏ね終え、寝かせている間に今度は煮込みハンバーグのソースを作る。トマトの水煮缶を空け、中身のトマトをざく切りに。玉ねぎとニンニクをみじん切りにしてオリーブオイルで炒め、その中にざく切りにしたトマトを入れる。固形ブイヨンも手で崩しながら混ぜる。
 軽く焼いたハンバーグのフライパンの中に、作ったトマトソースを入れて十分煮込む。この時スライスしたマッシュ―ルームも入れる。

 時計を見れば、そろそろ四時になろうとしている。

「それじゃ、お先に頂くね」

 早めの夕食を、一人で食べる。準夜勤の時だけは、京介や天馬と一緒に食事が出来ないのが、ちょっと寂しい。

「……寂しい、か。天馬くんに、「京介さん」とか「剣城先生」なんて他人行儀な呼ばれ方をしている京介の方が、よほど寂しいだろうな」

 食事の手を止め、そんな事をふと思う。

「俺は最初から、「優一さん」だったからなぁ。京介達とはスタートラインが違うしね」

 優一は、自分の微妙な立ち位置を心得ている。
 天馬を思う自分の気持ちの微妙さも。

 出勤の準備を終え家を出ようとした時、丁度天馬が学校から帰って来た。

「うわぁ!! 良い匂いですね! 今日の夕飯、ハンバーグですかっっ!?」
「はい、正解。京介が帰ってきてから、温めて食べるんだよ?」
「ありがとうございます、優一さん! そして、行ってらっしゃい!! お仕事、頑張ってくださいね」
「天馬くんから元気をもらったからね。じゃ、行ってきます」

 にこやかに笑みを浮かべ、優一は家の玄関を出る。誰かに見送られて仕事に出かけるのは、気持ちに張り合いが出る。

「いいもんだね。行ってらっしゃい、か」

 小さく口の中でその言葉を繰り返し、温かさを胸の中に流し込む。そんな事を思いながら歩いていると、一人の人物とすれ違った。どことなく隙の無さそうな、壮年の男性。こんな五時前の住宅地を歩き回る営業のような雰囲気もなく、早帰りで自宅に戻ろうとしているような感じでもない。

 一口で言えば、異質さを感じさせる男。

「……なんだろう? なにか、気になるな」

 優一は病院勤務のせいか、ある種の勘が働く。
 看護士と言う職業柄、毎日たくさんの入院患者と接する。少し前まで異常のなかった患者さんであっても、急変する事態に何度も直面した。だからだろうか? 何か良くない事が起こる前には、胸騒ぎのような物を感じるようになっていた。

 その名前も知らない、ただ通りすがりの男から感じたものも、良くない方に急変する前に感じる胸騒ぎと似たものだった。

「そう言えば、京介が言っていたな。生徒が下校する三時から六時の間は、大人の注意が手薄になる空白の時間帯、とか。特に下校後の親が帰宅していない時間帯に子どもの事件が起こりやすいと」

 すれ違った男が歩いて行った方向は、優一の家のある方向。そこには、帰宅したばかりの天馬がただ一人、留守番をしている。

「京介と相談してみるか」

 どうにもすっきりしないモノを残して、優一は勤務先へ向かった。
 



 2011年11月18日脱稿



    === あとがき ===

「子どもの情景」シリーズの、その2です。
記憶がないまま京介と優一兄さんと暮らすことになった天馬くんの話です。
章タイトルは組曲「子どもの情景」からです。

ルーキーランキング、11月18日26位、19日15位に入りました♪


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Date:2012/03/19
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